Vivaldi 以外のブラウザも私が使う理由

生産的な話がしたい。Vivaldiをけなす意図はないし、現に使っている。

ただ、メインにはFirefoxを使っている。
最大の理由は、プロファイルに分けなくてもコンテナで区切ってCookieを別々に保存可能なこと。一人でマルチアカウント利用が必要なウェブサービスがあるため。
プライベートブラウジング(シークレットウインドウ)を多用するユースケースが想定されていること。不必要なウェブサイトへの訪問時に、ブラウザ内にCookieなどのゴミを残したくない。もちろん、プライベートブラウジングがインターネット上では全く秘密にならないことは承知している。
アドオン(拡張機能)が、Google Chrome ストアよりもセキュリティ的にマシな気がする。(気がする程度である。)

しかしFirefoxだけでは互換性や速度の点で厳しい。世界でシェアが大きいブラウザはChromium (Blink) 系とSafari (WebKit系)なので、そのどちらかは手元に置いておくのが望ましい。iOSやmacOS、iPadOSならばSafariになるけどそうでもなければ、Chromium系を選ぶことになる。私はiPhoneを持っているけど、ネットサーフィンにはほぼ使わない。

Chromium系で具体的にどのブラウザを選ぶか。オリジナルのChromiumだとバイナリで配布されておらずビルドしないといけないという問題があった。なので、実質的にはプロプライエタリ(クローズドソース)部分のあるブラウザから選ぶしかない。そこで私は、Vivaldiのほかにも、OperaもEdgeも使っている。Google Chrome のプライバシーは信用しない。

EdgeはWindowsの標準ブラウザなので、Microsoftアカウント管理用に使っている。事実上強制されているわけで。本音をいえば、Edgeはバグっている。

Operaを使うのは、ブラウザベースのVPNのためだ。端末のインターネット接続を変更しないままで、VPN経由と非経由を同時に使い分けられるから。もちろん、Operaはメインにはしえない。Crypt Walletなんか使ったためしがない、そんなのないほうがいい。

Vivaldiの長所は、高度なカスタマイズが可能なこと。けれども他方で、Chromiumベースであるがゆえの構造的限界があって、(見た目や操作などでない)機能的な設定には大した差が出ないように思う。

Vivaldi.net の無料のメールアカウントの存在は大きい。

ただ、ブラウザにメーラ機能が必須とまでは思わない。私の生活習慣がゆえになおさらで、カレンダー機能はほとんど使わない。ブラウザのRSSリーダ機能は、いまどきはあまり役に立たないように思う。もう、巡回するウェブサイトにはRSSがないところが多い。
それと、メールもそうだけどRSSリーダはなおさらに、ウェブブラウジングと性質が異なる。自動で外部サーバにアクセスさせてデータを取ってくるというのは、自分からアクセスするクライアントプルな行動とは異なる。その点で、神経質ではあるのだけど、プライバシー面や、端末のインターネット接続状況の変化が、あまり想定されていないと思う。
もちろん、機能を使わなければいいだけのことだろうけど。

Vivaldi.netのブログサービスやフォーラム(掲示板)のサービスは、微妙だ。発展途上なだけだと思いたいんだけど。ブログサービスは、コミュニティとして役立っているだろうか。フォーラムは、言語の壁があって日本語だとさしてコミュニティになっていない

VivaldiにVPNサービスがあったら、Operaを棄てるよ。ただ、Vivaldiが企業としてVPNサービスをロンチするかって問題と、ブラウザにVPN機能を実装するのかって問題がある。実際、やらないんでしょう?「Operaと同じことをするのか?」ってことが理由でしょ?
ストレージサービスもやらないんだろうなあ。競業他社がたくさんあるし、アイスランドではネットワーク速度で不利だ。

三浦綾子の『塩狩峠』

三浦綾子の名作『塩狩峠』を先日、読了。この話は、塩狩峠は終盤にちょっとしか出てこない。塩狩峠の事故で自己犠牲を払う主人公、その人生、人格形成が描かれている。

キリスト教と、江戸時代からある儒教(日本仏教)の封建思想とで、死生観が比較されている。

序盤では、主人公(信夫)の祖母が典型的な封建思想の持ち主で、うちは士族の家(武家)だから云々とか、将軍や天皇を崇敬してきたこととか、云う。序盤から狙って、きわめて好対照な人物を出してきているわけだ。

その祖母や父も死んで、信夫は生と死について苦悩するようになる。信夫は祖母の影響を受けて育ったが、次第にキリスト教に関心を示すようになり、クリスチャンにまでなる。

いまでも世間で「日本的」「封建的」「仏教的」と捉えられている価値観や死生観は、中国の儒教のものだ(実は、元来の仏教ではない)。先祖から子孫へと血を受け継ぐことで、個人を超えた意味で永遠の命を得る、そういう死生観だ。だから、長男は我が子を成して家を継がせなければならない。親より先に死ぬのは親不孝。自殺は罪悪。

他方のキリスト教では、全く異なる意味で永遠の命を考える。創造主(三位一体説ならイエスと同じ)のもとに召されて永遠の命を得るという死生観。

主人公の信夫がなぜ、結婚や子にあまり執着しなかったのか。物語終盤の、塩狩峠での列車の暴走事故でもなぜ、冷静に事故対応し、乗客たちを救うためにためらいなく自己犠牲を払えたのか。それは、キリスト教の価値観・死生観があったからだ。

つまり『塩狩峠』のテーマは、キリスト教の死生観と自己犠牲について、だろう。

それだから、日本に江戸時代からある儒教的な価値観や社会思想を対照して批判的に述べる。「日本的な」「右翼的な」差別主義も目立って登場する。キリスト教徒差別、障害者差別、北海道差別、男女差別、感染症差別、さらには「いい年になっても結婚しないのは『かたわ』なのではないか?」とかいう言説までも。日本人としての自認のもとにこうした日本社会の本性をみせられるのを不愉快に思う人も多いだろう、この本を読むと。

Python 3.11 is released

Python 3.11 が出たので、今日は一日、システムの更新にかかりきりだった。しかも徹夜明けなのに。忙しくて。ふらふらしている。カフェインが効きすぎる体質なのでコーヒーを飲んだら疲労を感じにくくなってしまうけれど、心身に無理をさせている。これから冬になるのでカフェインを摂る量は多くなるだろうなあ。

ブログカテゴリ名を変えないほうがいいらしい

この vivaldi.net のブログは独特なつくりになっている。

blogs.vivaldi.net のトップページには各ユーザのブログ記事が紹介されるようになっている。見てのとおりこのページの右サイドにはカテゴリリストがあり、そこに入るとカテゴリごとに全ユーザの記事が一覧表示される。いかにもコミュニティ指向のVivaldiらしいソーシャル仕様である。

そしてこの一覧には、設定されているカテゴリ名が一致したブログ記事を載せているようだ。だから、自分のブログのカテゴリの設定を変更してカテゴリ名を変えてしまうと、この一覧には載らないみたい。

なので、べつに載らなくてもいいのだったらカテゴリ設定を編集してもいいけど、載せて欲しいのであればカテゴリ設定をデフォルトのままにしておいたほうがいい。

多言語化やカスタマイズの点でとても残念だ。デフォルトのカテゴリを使い続けなければならず、しかも英語のカテゴリ名のままにしておかないといけないわけだ。

そんなわけで、かの一覧ページに日本語の投稿が少ないのも、デフォルトで設定されている英語のカテゴリ名をそのまま使っていない日本語ユーザが多いからなのかもしれない。

では、カテゴリ設定を変えないで、同じような機能を得るにはどうしたらいいか。というと、WordPress系であるこのvivaldi.netブログにも、カテゴリ以外にタグ機能が備わっている。なので、タグを活用して、思うようなカテゴリ的機能を得ればいいと思う。で、投稿しするときには、既存のカテゴリ名も記事に設定すればいいわけだ。タグはタグで、自分のブログ記事の分類に自由に使うわけだ。

それにしても、このカテゴリ区分はきついわぁ。もっとマシにしてくれないものかしらん。テーマは3種類だけ、プラグインは追加不能。そのくせ、SEO設定とかあるのよねぇ。不可思議なブログサービス。